長者の館を訪れた少女
時は人皇第六九代後朱雀天皇の頃である。備中矢掛の里(現在岡山県小田郡矢掛町東川面)に通称「はふ板長者」と呼ばれる長者があった。主の新五平は、深く仏法に帰依し、特に観世音を信仰し朝な夕な熱心に称名を唱え、善根功徳を心掛けて居たので世の人々からも深く尊敬を受けていた。
或る年の春、夕暮の事、歳の頃一三、四と見える一少女、身には粗衣をまとえども自然に備わる尊い気品、顔には無限の愛嬌ある純情可憐な少女、唯一人漂然と長者の館を訪れた。「妾は旅の者、御面倒乍ら一夜の宿を御願い申す。」という。折よく主新五平は居合わせて、慈悲深き人なれば「それはそれはお困りの事遠慮なく御泊まりなされ」と情ある言葉をかければ、少女は喜んで家に入り、夕飯の馳走を受けて疲れた足を休めて一夜を明かした。
しかし翌日も、その翌日になっても一向に出立する様子もなく其のまま家の仕事など手伝っており、主も亦気をとめぬ様子で日々は経って行った。然して少女の働きぶりはいつしか人々の目に止るようになった。
かげひなたなく真面目で何事にもよく気がつき、その上仕事の早い事は常人の比較にならず、10人分の仕事もまたたく間に仕上げ難しい多くの仕事も一夜の内に片付けていたなど不思議な事もあり、人々を全く驚かした。そしていつも黙ってニコニコとして居り誠に申し分のない働きぶりに主の新五平も、つくづく感心していた。
少女は暇さえあれば自分の部屋へ入り静かに何か書物を読んでいる様子であるが家人にはそれが何であるかは判らなかった。後になってそれは尊い普門品という経典であった事が判って人々は今更の様に驚いたという。
無駄を嫌う少女
又常に物を無駄にすることを惜しみ、日々の調理物一切の残物も集めてこれを雑炊にして自分はこれを食していたという。 或は又長者のこと故、年々数多の年貢米が納められる。
其の度に多くの(こぼれ米)が庭や倉の中に散乱して無残にも人々の足に踏みにじられている。少女はこれを主に願って貰い受け、掃き集めて毎夜、石や土をより除き米は俵につめて、倉の一隅に置く、こうした事が幾度も続いて(こぼれ米)の俵は次第に数を増してうず高く積まれて行った。
働き者の少女
長者は少女の忠実な働き振りに感心して「そなたは実によく働いてくれて有難い、就いては何か御礼を致したいと思うがお望みがあるなら遠慮なく言って貰いたい」という。
少女は「末永くお世話になって何もこれとて申す事も出来ませぬのに、その様な御親切なお言葉には恐れ入りますがご親切に甘えて、一ツだけお願い申します。実は妾は生来馬が好きでございますので、馬を一頭戴けないでしょうか」という。
長者は少女の願いを聞いて「それはいとお易いこと裏の馬屋の中でそなたの好きな馬をどれとなり差上げよう。」と答えた。
少女は非常に喜んで「それではあの馬を一頭戴きとうございます。」と言って貰い受け、それから後はその白馬を特に可愛がっていた。
少女の姿
ある日長者新五平は所用あって近卿(きんきょう)へ行って、夕方帰ってきた。少女は勝手元から水を汲んで出て「お帰りなさい。定めしお疲れの事で御座いましょう。どうぞこれで足をお洗い下さい。」と縁側に腰掛けている主人の許へ運んで来た。
新五平は何気なくその水に映った少女の姿を見て驚いた。それはまさしく観世音の御姿其のままである。自分が日頃観世音を信仰しているので或いは気の迷いではあるまいかと、目をしばたたいてみたが、やはり観世音の御姿に相違なく、新五平は思わずその水鏡に合掌した。
少女は其の様を見てきまり悪げに差し俯向いて急ぎ勝手の方へ走り去ったが、新五平はいつまでも其の不思議な出来事を考え込んでいた。
この事は家人にも告げず新五平は今までより増して少女を敬愛し少女も亦相変わらず何事もなかったように今まで通りよく働いていた。
成長した少女
月日は流れて早三年余り、少女は17、8才になり、容姿は益々美しく気立て優しく、近卿(きんきょう)一円の評判娘となり、諸方の名家から縁談の申し込みも続々出だしたので新五平はそれとなく意中を尋ねてみた。
すると少女は「お言葉は有難うございますが、妾には此処から西北六里ばかりの所に定まった先が御座いますれば、この事ばかりはお断り申し上げます。何卒悪しからず御許し下さい。」とはっきり答えるので、新五平もこれ以上奨める事も出来ず縁談の事はそれきりとなり又、今まで通り平和な日を送っていた。
その翌、長久二年三月十八日の朝まだき、裏の馬屋の方でコトコトと音かするので、下男の一人が起きて出て見たところ、主が少女に与えたという白馬が一頭見当たらず、街道に当って馬の蹄の音がする。下男は急ぎ門外に飛び出て西方に向かえば、白馬に乗った少女が朝霧の中に悠然と去り行く姿が見える。下男は驚きかくと主に告げたので、新五平は狂気の如く走り出て「今一度帰らせ給え勿体なや、日頃下女同様にもてなしたお詫びも致し度し、今一度帰らせ給え。」と声を限りに叫んだが少女は後も振り向かず蹄の音も軽やかに西へ西へと去って行く。かくてはなら
じと新五平は下男に命じて今一頭の馬の引き出し其の後をつけさせた。下男は見えつかくれつ少女の後を追って、道を小田川沿いに遡り、遂に備後国安那郡大家郷(今の福山市山野町)に入り、郷の中央にそびゆるとや山(今の馬乗山)にかかった。
山は麓から密林の如く茂っているが白馬に乗った少女は恰も広野を行くが如く易々として登っていく。下男はこれに遅れじと、石につまずき、岩に取り付き、木々の間をくぐり抜けて漸く峰の頂上に登りつき、ホッと一息しながら先を見ると少女は桜吹雪のひらひらと散る中に白馬をとめて、ひらりと馬から降りて、手綱を傍らの桜の枝に結びつけ、しばらく白馬の顔を親しげに愛撫しやがて東南矢掛と思わるる方向に向かい、静かに中央合掌の姿勢となるや少女の姿は次第に神々しき観世音の御姿となり、其のまま霧の如く煙の如く消え失せた。
これを木陰より見ていた下男は、我を忘れて思わず知らず両手を合し、南無大慈大悲の観世音菩薩と唱えつつその場に打伏した。間もなく我に帰った下男は其処に残った白馬を引いて山を降らんとしたが白馬は頑として動かず無理に追い立てる内手綱は切れて、遂に馬は何れとも知れず馳せ去った。(今此の処を「馬がはな」という)
観世音の化身であった少女
下男は仕方なく白馬から放れ落ちた鞍を証拠に事の由を主人に告げるべく矢掛をさして馳せ帰った。仔細を聞いた新五平は「我の見し水鏡、下男の見た今日の次第、これは全く日頃自分の予期した通り少女は観世音の化身であった、有難い事だ、もったいない事だ。」と、これより用意万端調えて、下男を道先案内に備後とや山の頂上に辿り付き、桜樹の側に屋敷を造り、一宇の御堂を建立して、本尊と仰ぎまつる水鏡に映りし尊像と下男の見た御姿をそのままに「十一面千手観音」として勧請した。そして観世音化身最後の日、三月十八日を有縁の日柄として毎月其の当日
は必ず参詣して数多の接待の品を運び上げ一生その身を観世音に捧げた心持ちで信心いよいよ堅固に、長き寿命を保ち家業は益々繁栄して仕合せの一家となった。
これより後、此のとや山はいつしか馬乗山と世の人々から愛称せられ、観世音も俗に馬乗観音と呼ばれるに至った。そして彼の桜樹も「駒止桜」と呼ばれて、何代目かの桜の古木一株は今尚観音堂の西側にありて、昔の奇しき縁起を物語っている。長者新五平の家は其の後も代々栄えて地方の名家旧家として一族十数戸の地に残っている。此れ皆観世音功力の絶対的霊験によるものと近郷近在の語り草である。